2_思い起こせば

無料エンディングノート 自分史(年表) 2020年入院
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自分史(年表)

昨日、自分史を今日明日で書くとなると大変なので、テーマを今回の手術に関連したものにしようと思うと書きましたが、まずはエンディングノート(基本編)にある自分史の年表形式を作ってみようと思いました。

まずは自分で、見本というか事例を示した方がいいかなと、しかも単なる記載例よりも本物がいいだろういう思いと、テーマに絞って書くにしても何を書くか年表があった方がいいと思ったからです。

下の表が実際に作ったものですが、自分の「出来事」欄はある程度すんなりできました。

それでも結構大きな出来事だったにも関わらず、何年の出来事かはっきりしないものがあります。

アルバムをめくればもう少しこの頃だったかなというのははっきりすると思いますが、今は時間がないのでこれ以上深追いはしません。

記憶がいかに曖昧かいい例です。

次いで、「世間の出来事」をネットで調べ、自分で印象的な出来事を抽出しました。

この表を作ってみて感じたことは、自分自身のことでももうだいぶ不確かなことが結構あること、世間の出来事を記入していて、当時何をしていたかを思い出しました。この表を作らなければたぶん思い出さなかったでしょう。

1つは、1976年のロッキード事件でこの時か同課はわかりませんが、田中角栄首相が逮捕されたという号外を見た記憶がよみがえりました。

不思議なのですが(勘違いかもしれませんが)、高校の修学旅行で瀬戸内海の船の上にいた時に逮捕の号外ニュースを見た映像が頭に浮かぶのです。

修学旅行の日時スケジュールと角栄の逮捕の日が分かれば、記憶が正しいのかわかるのですが。

他にもまだありますが、もう1つ挙げると、1979年の共通一次試験の実施です。

前年のまだ国立大学が1期校、2期校と区分があった最後の年に一浪の末に大学に受かったということを思い出しました。

もし受からなければ翌年初の共通一次を受けることになるかもしれず、背水の陣で臨んだ記憶があります。もう後がないと。何がなんでも受かるんだという気でいました。

今となっては遠い昔の話ですが、普段であれば絶対思い出さない、そういった記憶が不思議と思い出されました。

無料エンディングノート 自分史(年表)

自分の出来事の部分をもっと詳細にすれば、世間の出来事欄ももっと増えるし、その時の興味の対象の持ち方によっては、あげ方も違ってるでしょね。

2007年の「おくりびと」のアカデミー賞受賞ですが、この映画は映画館で観ましたが、このエンディングノートをつくるということをやっていなければ、あげることはなかったと思います。

人によっては、ファッションが流行していたという出来事が上がる人もいるでしょうし、まずはこの自分の年表を作るというのはやはり正解な気がします。

年表を作るのに少々時間を要してしまいましたが、今回は人工股関節手術に関する部分に特化しますので、そもそもなぜ人工股関節が必要になったのかを説明します。

交通事故

今を去ることちょうど50年くらい前に動くのが好きな少年がいました。

彼は小さいころから活発で、小学校の運動会ではいつもリレーの選手に選ばれ、球技が好きでした。

少年野球をやってはファーストを守り、長嶋よりも王が好きでした。

中学生になり無事1年生を終えた春休み、彼に悲劇が襲いました。

というか、自分から悲劇に飛び込んでしまったのです。

小学校の近くに上を電車が走る長いトンネルがありました。

そのトンネルの一方の出口の前は、貨物船があり、たまに貨物列車が通っていました。

トンネルの出口前に線路という危険な場所なので、トンネルの出口と線路の間には公園の出入り口にあるような「コ」の字をした柵の障害物があり、自転車も押さないと通れないようになっていました。

活発な少年は、いつもの通り勢いよく走ってきてその柵を飛び越えました。

それが不幸の始まりでした。

というわけで、事故の詳細は覚えてないので創作ですが、たまたま飛び超えた先に貨物列車が通過して巻き込まれてしまったということのようです。

   今、グーグルマップで事故のあったところを見てみたら、貨物線は今はなくなっていました。

   トンネルと柵はありましたが。

   時代が変わって、一瞬で昔の場所に行けるのは不思議な感じです。ここで昔事故にあったんだけど、今はその面影もないし、もう誰もそのことを知らないだろうと。

事故の前後は全く記憶がなく、救急車で運ばれた病院の先生からは「今夜がヤマなので、親戚とかを呼ぶように」と言われたらしく、田舎から大分親戚が来てくれたらしいです。

私が目覚めたのは、事故から数日たった頃で、一番最初に目にはいったのが母親の顔だった気がします。

体が全く動かず、遠目に右足先が無いように見えて、母に聞いても何も答えてくれなかったような気がします。

その時の主な症状は、左股関節骨折、右足先切断、それに頭部が出血で膨れ上がっていて、右顔面が傷だらけという状態でした。(ここまでわかったのは事故から2〜3週間程度たってから)

後で聞いた話では、うわ言のように「おかあちゃん、おかちゃん」と言っていたようです。

「おとうちゃん」とは一言もいわなかったと後から聞きました。

小学校の高学年から親の呼び名は、妹に影響されてそれまでの「おとうちゃん、おかあちゃん」から「おとうさん、おかあさん」に代わっていたのですが、生死の境で本能的に昔の名前で呼んでいたのでしょうね。

でも、おやじの名前を読んであげなかったのは、「かわいそうだな」と当時思いましたし、今は子を持つ親としておやじは「かわいそうだな」と身に染みて感じます。

最初の手術

交通事故で左の股関節が3分割となってしまいましたが、取り敢えずは救命が一番ですから股関節の手術は半年後に別の病院で行いました。

救急病院を退院して股関節の手術を受けるまでの数か月間は、ウェストの辺りから足先までも金属製のコルセット(?)で覆ってました。左足が地面につかないように浮かせて歩くためのものです。

股関節の手術は、人工股関節にするという話もあったそうですが、まだ子供で今後の成長を考えると人工股関節にしない方法をとることになり、どっかの大学の偉い先生に来てもらって手術したと聞きました。

このあたりのことは半世紀前のこともあり、あまり細かくは覚えていません。

ただ、私がこの交通事故で学校を長期間休んだため、進級できず、翌年4月から1年遅れで2年生になりました。

親が私のことを不憫に思ったのでしょう、このことで話をした記憶はありませんが、中学2年の冬に引っ越しをし、別の中学に進みました。

この時期、まだ松葉杖をついて通学していたのを覚えています。

引っ越しもそうですが、私の交通事故とその後の手術、入院等で親に多額の負担をさせてしまうなど大きな迷惑をかけたと思っています。

私のために、親の人生も相当変わってしまったんだろうと思います。

いまだに両親には、感謝しても感謝しきれません。