BOOK『反応しない練習』   草薙 龍瞬著   KADOKAWA 

反応しない練習 お勧め本
スポンサーリンク

本書は『使える「原始仏教」入門』とある。

「使える」とは何なのか。原始仏教=釈迦の言葉そのものとし、釈迦の言葉は現代にも十分活用できる。

そして、それを習得することにより自分の人生に「最高の納得」感を得ることができるようになるとしている。

悩み

人間なら誰しもいつも抱えている悩み。

悩みというのは、心が反応するから生じるものであり、そもそもムダな反応(悩み=執着)をしないのが一番よい。

もし発生してしまったムダな反応(悩み)は解消させてしまえばよく、その方法を原始仏教が示しており、本書でその利用法を解説している。

仏教には克服すべき根本的な煩悩が3つあり、それは「貪(トン)・瞋(ジン)・痴(チ)」という三毒で、この三毒をなくせば「苦しみの原因=悩み」を消滅させることができるとされる。
  ・「貪」は貪欲さ。際限のない貪欲さ(執着)は心の毒である 
                       ←→ 足ることを知る、施す心
  ・「瞋」は怒り。思い通りにならないものから生まれる怒りは心の毒である
                       ←→ 思いやり、慈しみの心
  ・「痴」は無知、愚か。道理をわきまえない愚かさは心の毒である
                       ←→ 智慧の心

※本書では、三毒の「痴」を「妄想」に置き換えている。
 一般的には「痴」は無知・愚かさを表しているとされるが、本書では何故「妄想」なのか。(現状ではわからない。そのうち分かるようになるのか)

〝慢〟という心のビョーキに気をつける

人はみな、「自分が考えることは正しい」と、心のどこかで思っています。
しかし、その判断が正しいのか、間違っているのかは、一体どのように「判断」するのでしょうか、と筆者は問いかけている。

ある基準にもとづいて合否を判断する場合、その基準に則ってどうかを確認すればいいので、合格、不合格という結論は明確に出せる。

しかし、世の中には数学のように「正解はコレ」というようなことはほとんどない。

勝てば官軍的なものはあっても、個人の考えには正解はないといっていい。

これはある意味人間にとっての永遠の課題でもある。

自分の考えというのは、360度の全方位から物事をみて判断するのではなく、ほとんどの場合ある一部だけをみて判断することになる。

その判断は多くの場合「その部分は正しい」と言うレベルでしかない。

人を判断する場合が分かりやすいが、ある人は「あの人は親切だ、やさしい」と言っても、別の人は「あいつは無礼で傲慢だ」という評価になる場合もある。

それぞれが間違った見方をしているというよりも、同じ人間に対してある一面しか見ていない、知らないだけのことである。

本書では、「自分は正しい」という判断は「自分にとって正しい」だけであるから、「自分は正しい」という考え(ある種の傲慢さ)=判断から離れてみなさい、と言っている。

現実問題として、自分で自分のことを100%わかっている人は存在しないのではないかと思う。そうした状況で他人が他人を正確に評価するというのはほとんど不可能ではないのか。とはいっても、何らかの判断・評価をしないと人付き合いも満足にできないことになってしまう。そのため、人は自分なりの評価で人を判断し付き合うことになるが、あくまでもそれは一面的な部分での判断であって、何か新しい面を見つけた時にその人を見直すことができるだけの柔軟な思考が必要となる
「傲慢、高慢」とならないように気を付けましょう。

原始仏教のこうした叡智により執着を離れ、慢(心)に気をつける、あるいは自分は自分とし他者の評価は気にしない、同時に他人は他人とし、相手のことを勝手に評価しないなどのことを通してまずは自我を確立し、それにより最高の人生を送れるようになるとしている。

大原則──〝快〟を大切にしていい

「快」を大切にするというと「快楽」という言葉を連想することから仏教の方針に反する気もするが、「幸せ」になるための(即ちプラスの)「快」は大事にしてよいという。

ただ、「快」は人によって千差万別であり、昨今のご時世を考えると人に危害・損害・不快感(マイナスの「快」)を与えても自分が良ければいいという人も存在する以上、他人と関わりなく「快」を感じられる場合はその「快」を大事にしてよい、という前提を記述して置いたほうがいいように思う。

(他人が関わったとしても共に「快」を感じられる場合はその「快」を大事にしてよいだろうが)

『悩みというのは、心が反応するから生じるものであり、そもそもムダな反応(執着)をしないのが一番』という冒頭の観点からすると、プラスの「快」はムダな反応ではないということになる。

まぁ、プラスの「快」であればそもそも悩みにすらならないだろうが。

(悟りの取得を目指すお坊さんはそのプラスの「快」でさえも反応してはいけないらしいが)

また、苦痛しか与えない人とは縁を切っても良いと言う。

これも宗教と言うと博愛精神的な感じから仏教の方針に反する気もするが、縁を自分から積極的に切っても良いという。

プラスの「快」を求める気持ちは大切にすべきという考えとは一致する。

人間関係の基本は、お互いに相手を尊重・理解することが大事だが、こちらがどんなに尊重・理解しようとしても相手にその気がなく一方的に「危害・損害・不快感=不快」しか与えてこないならば自分を大事にする(自分の「快」を大事にする)意味からもその関係を断つべきである、ということになる。

何でも我慢して受け入れればいいというものはない、という。

本書では他に、集中力を高める手順(八正道)、人間関係をまあるく納める心がけ(慈悲喜捨の心)などいろいろと為になることが書いてある。

全般的に、本書を通して感じるのは、仏教には、その道の専門家(僧侶等)が従うべき難しい仏教道とは別に一般人向けに仏教はこういう使い方もあるんですよという効用を説いている。

本書を読んで思うのは一読二読しただけでは十分な理解はできているとは思えないので、時間をおいて改めて読んでみる価値はあるのかなと思う。

いつかは「痴」を「妄想」とした理由もわかるのかもしれない。

また、筆者の他の本も読んでみたいと思う。

本書がベストセラーとなった理由も仏教という宗教が引き付けたというよりも人生に対する考え方や悩みを解決してくれる教本という位置付けかと思う。